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1Q84

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たまには読んだ本の紹介でもしてみようかと思います。
くどいようにここに書いている村上春樹を解読するという単なる私の好奇心を一旦まとめるというのただの思いつきだけど。
 まあ村上春樹だし『1Q84』なので、すでにお読みになっている方も大勢いらっしゃるだろうし、もし既読の場合は読み飛ばしてやってください。そんなわけで「最近本読んでないなあ」であるとか、「話題になっていたのは知っているけど読んでないなあ」とか、「読まないけどどんな内容なの?」といった方々向けに、ネタ(オチ)バレにならないギリギリの寸止めで紹介してみたいと思う。

 青豆と、天吾という一見接点のない2人の話を、それぞれ無関係にパラレルに進める方法で話は進みます。
青豆はスポーツジムのインストラクターをしているが、裏では殺し屋として暗躍している30歳になる女性で、殺し屋といってもゴルゴ13というより「必殺仕事人」のように世直しに荷担しているといった風情だ。実際殺しの手口も「必殺」的なクラッシックな方法でもある。
 一方天吾は予備校で数学を教える傍ら小説家を志す青豆と同じ30歳の男性で、編集者の小松から新人賞応募作品の選考の下読みを任されていたのだが、その応募作の中にどうしても抗うことのできない魅力に満ちた作品に出会ってしまう。なんとか最終選考にその作品を残したいと天吾は小松に進言するが、あまりに粗削りにすぎるその作品を最終選考には残せないと小松は言う。しかし当の小松もその作品の魅力には気づいており、ほんの遊び心と儲け心で天吾に修正作業させることを持ちかける。もちろんそれは発覚すれば罪に問われる一種の詐欺行為だ。しかし、その魅力に取り憑かれていた天吾は運命に導かれるように、その誘いにむしろ積極的に荷担してしまうのだが、その『空気さなぎ』という題名の作品を書いた17歳の美少女「ふかえり」は、「さきがけ」と呼ばれる元々は平和的なコミューンから発展したカルト教団のリーダーの娘で、どうやらそこから逃げ出して来たということが発覚し、天吾はのちに不穏な輩につきまとわれることとなる。
 時を同じくして青豆にそのカルト教団のリーダー暗殺の使命が下るが、もちろん目的のためなら実力行使も辞さないカルト教団なので、その仕事は一筋縄でいくはずはない。
 そうして、無関係に進む青豆と天吾の物語は、実はお互いが20年前、子どもの頃にあったほんの少しの邂逅から惹かれ合い、知らず知らずにお互いがお互いの心のよりどころとなっていた・・・・・
と、

 ざっと基本的なプロットはそんな感じだ。付け加えるならばこの運命の二人は出会えそうで出会えないまま進行していくところもなかなかに焦れったく、ヤキモキとさせられてしまうところもこの物語の魅力だ。
 加えて、Book1、2、3に別れる今作は、そもそもBook1とBook2が刊行され、あとから結末となるBook3が追加されたと記憶している。そんなわけでこういった作品には珍しく、わざわざ追加してまで登場人物二人の結末と謎解きがなされているところも興味深く、つまりスッキリ(かどうかは人によるかも知れないが)と読み終えられる“文学作品”には珍しい内容だというところもこの『1Q84』の特徴だと思う。

 そんなわけで、私には珍しくあっという間に読み終えてしまった。それほどにスピード感のある展開で、純粋に物語を読むつもりで手にしても後悔のない作品と言っていいと思う。
 ときに、発行当時に私がお付き合いしていた女性は、この『1Q84』の物語をまったく違う内容として話してくれたので、読む人によって大きく観点が変わるのかもしれない。それもまたこの物語の一面なのか。

で、例によってここからは私の勝手な放談をさせていただく。

 私はこの『1Q84』を読んでいるあいだ、同じ村上は村上でも村上龍の『コックサッカーブルース』を思い出していた。

 各界のVIPの参加する秘密のSMパーティーで、女の子が一人を除き全員電気ノコギリで切り刻まれた─
小さな出版社を経営する堀坂進太郎は、ある日彼の別居中の妻の服を着た見知らぬ女が知らない間に自宅に上がり込んでいるのを見つける。それが発端となり、やがて堀坂は、SMモデルをしている女の剥ぎ取られた爪が送られて来るなど様々な変態性欲者と関わりながら、否応なしに「SMの天才」と呼ばれるその女を追いかけなければならない羽目に陥る─


で、どちらかというと私はその『コックサッカー〜』の方が好きだ。もちろん同じ村上でも『龍』の方がそもそも好きだってこともあるのだが、だからこそこれを基準になぜ『春樹』の方が苦手なのかを考えてみた。

 で、出した結論は、誤解を恐れずきっぱり言うけど、『1Q84』や『色彩を持たない多﨑つくる〜』(の二作品と昔『ノルウエイの森』を読んだだけだが)に出てくる主人公たちはみんな明らかな『被害者』で、私は明らかな『加害者』側だということだった。
 登場人物はみな幼少期のトラウマに悩み苦しみ、そこからの救済を求めていたり、諦めていたりしているように思う。翻って村上龍の小説に出てくる主人公たちは、例えば『コックサッカー〜』の堀坂は、ある日突然カリスマSM女王が鍵がかかっていたはずの自分の部屋に何事もなかったようにいたことで、シリアスな事態に巻き込まれるあきらかな「被害者」なのだが、そこからの打開策を見いだそうとする様がとてもヘルシーで前向きなのだ。そして、その堀坂も「バチが当たった」と思いながら行動しており、つまりは普段は知らずに他者を傷つけている「加害者」であるところが私との共通する部分なのだ。
 もちろん村上龍の作品にも過去のトラウマに苦しむ人物は多く登場する。しかし、それを眺めている語りべはいつもヘルシーで攻撃的な思考回路をもつ人間だと私は思う。

 単なる私の中での比較でしかないのだが、何かそういった「どちら側」に属するのかによって、村上春樹の小説の読まれ方が別れるような気が今はしている。つまりその説が正しければ、心に少なからず枷を填められている人、もしくはそのように不自由を感じている人が現代社会には多いとそういうことなのだと考えられる。

もちろん、これはただの推論でしかないのだが、そう考えると腑に落ちることが多いと、そういうことだ。

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テーマ:読んだ本の感想等 - ジャンル:小説・文学

2013.05.23 | コメント(0) | トラックバック(0) | 徒然

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