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サイレンス -沈黙-

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原作は1966年に刊行された、遠藤周作の「沈黙」。
マーティン・スコセッシ監督作品『SILENCE』は、
いわゆる “隠れ切支丹” への弾圧を描いた作品だ。

隠れキリシタンへの弾圧は、教科書に載っているようなレベルではなく、
想像を絶する残忍なものであったことは、これを観なくとも想像に難くない。
それでも日本人は、この「沈黙」という作品の、その残忍な部分と、
それが果たして正当だったのかどうか?といった部分に、
つい目が行ってしまうと思うが、
外国人であるスコセッシも、遠藤周作も描きたかった世界はそこではない。

イエス・キリストの人間的側面を描いた
『最後の誘惑』を撮ったことからも知られるとおり、
スコセッシは敬虔なキリスト教徒だ。

欧米においてのカトリックの存在感や、その存在意義は、
日本人の我々には計り知れないものがある。
それは、欧米人にとって、すべての価値観の源であり、
すべてのはじまりであるとも言える。
スコセッシ監督自身が、この作品のことを
「壮大な試行錯誤の旅、学びの旅でした」と語るように、
だからこそ、常に彼らはそのこと自体と対峙し、
そのことの是非を、そこで定義される善悪と向き合い続け、
時に祈り、時に背を背けてきた。

それはつまり、常に価値観が揺らぎ続けて来た証と言い換えても良いだろう。

外国人宣教師たちが、極東の島国で行われている
肌の色の違う同胞たちの迫害を目の当たりにし、
彼らに救いや『赦し』を与えようとするが、
その同胞だと思っていた島国の人々が、
実は自分たちの信じる神を“錯誤” していた事を知る。
それでもなお彼らは生を放棄してまでゼウスを信仰していく。
縁もゆかりもない異国の地で引き起こされる、極限の洞察の中で、
宣教師たち自身の信仰心にも揺らぎが生じてしまう・・・

そんな、究極の答を求める人間が、
一番に神の存在を必要とするような不条理の中でも、
信じるべき「その者」は決して姿を現さないし、語りかけてもくれない。

“沈黙” したままだ。

「神の子でないこと」を王に認めるよう強要され、それを拒否したことで、
ゴルゴダの丘で磔にされ処刑された神の子キリスト。
その姿に自身を重ねながら、与えられた試練を信仰の本質だと信じる人々。
『沈黙』は、そんな究極の試練の中で、自身の信仰の本質、
自身の存在理由と対峙する人間を描いた力作だ。

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主演は『アメイジング・スパイダーマンの』アンドリュー・ガーフィールド、
そして『スター・ウォーズ エピソード7』で、カイロレンを演じた
アダム・ドライバーと、若手の注目俳優の出演に加え、
そこに名優リーアム・ニーソンが脇を固める。

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そして、窪塚洋介、浅野忠信、イッセー尾形といった、
日本を代表する個性派俳優達が、素晴らしい演技を魅せていました。

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中でも窪塚洋介演じるキチジローは、
家族を火あぶりの刑によって失うという悲惨な目に遭いながらも、
事あるごとに踏み絵を踏み続け、生きながらえ、それでも尚、
神への信仰を失わずに赦しを請い続けるという難役だ。

キチジローの “弱さ” は、一見するとズル賢く見えてしまうが、
“生きているからこそ” 果たせる信仰の責任以上に、
“生を大切にすること” というキリスト教の本質に根ざす、
それ自体の矛盾点をあぶり出す大事な役どころ。
そんな難しい役どころを、彼なりの “狂気” でもって、見事に演じきっていた。

ここで描かれる深い矛盾は、キリスト教に限ったことでも、
宗教に限ったことでもないと思う。
それは「生きるが故に生きる」ことで生じる人間の根源的な問題点だ。
これを機に、原作の方もまた読み返してみようと思います。
  

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2017.01.27 | コメント(0) | トラックバック(0) | 映画

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近ごろ波乗り。

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