
昨日書いたように、原作は映画と違って時系列を逆に遡るかたちで書かれている。
映画は時系列に沿って描かれているので、
つまり映画と原作では描こうとするポイントが違うのだと思う。
それは、予告編にもあるように、この映画は、
淳吾と花の関係を、男と女の「愛」だと捉えている部分だと思う。
二人が紋別で暮らしはじめて少し経った、
中学生からの花を二階堂ふみが演じているので、
昨日言ったように幼女趣味感はかなり抑えられていて、
そのぶん普通に観ることができる。

奥尻島のシーンの子役がこの役を務めていたら、
それこそ悪い意味で問題作になっただろう。
花は実の父親であっても、否、実の父親だからこそ、
他人以上に愛することができると信じていて、そういった間違いを犯すことを、
観る者にもすんなりと理解できるようにできている。
少女に芽生える「普通の恋心」なのだと、映画の方だと思える。
だから、本来、その狂った世界の源であるはずの淳吾(浅野忠信)の方が、
どちらかというと添え物で、あまりその狂気が伝わって来ない。
つまり、映画では狂気の根源は少女の方とされている。

「子どもの頃は淳吾のすべてが見えた・・・
なのに、今はぜんぜん見えなくなった・・・」
花が大人になるにつれて、自分の愛したはずの男の本性が見えてくるぶん、
それまでに抱いていた男としての魅力も、
親子だからこそ抱くことのできる強い絆として映っていた関係も、
すべて消えてしまう。

それは、小学校の同級生と恋に落ちて、大学に進学したとたんに
男に対して抱いていた魅力が霧散してなくなってしまう、
普通にどこにでもあるような話とまったく同じだ。
人間は、子供という狂気の時間を経て大人になるという示唆なのかもしれない。
小説では、新婚旅行から花が帰る頃には、
淳吾はそれまで二人で暮らしてきた部屋をきれいさっぱり引き払って、
(あるものと一緒に)花の前からその姿を消しますが、
映画は結婚式の前日で終わっている。
自身が狂人であることを理解していた
淳吾の覚悟と引き際が、映画では描かれないので、
余計に男の方が添え物に見えてしまうと思った。
そんなわけで、私にとってこの『私の男』という作品は、
映画と小説、両方体験してはじめて完結する番(つが)いの物語でありました。
さて、二階堂ふみにしても、浅野忠信にしても、
そもそもこの2人をイメージしながら原作が書かれたのではないか?と
思えるほどのハマり役と言っていいだろう。
ただ、ハマるということは、その役者のイメージが強い場合は、
そのイメージに役柄が引っぱられてしまうので、それもまた良し悪しだ。

そんな強烈な個性のぶつかり合いの中、
少なくとも私にとっては役者としてのイメージのまったくない圏外から、
突如として現れたのが、淳吾の彼女「小町」役を演じた河井青葉。
小説ではそれほど重要な役どころではないのだが、
映画の方では花の恋敵として、
ある意味、花の暴走を加速させる触媒の役目を果たしています。
そして、つかみ所のない淳吾という男に惹かれてしまう、
泥沼の男女関係に沈んでいく女性の姿を見事に演じています。
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テーマ:WOWOW/スカパーで観た映画の感想 - ジャンル:映画
2016.07.29
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とある人間から、完全に抜け落ちてしまった理性や社会性。
ひょっとしたら知性すら失ってしまったのかもしれない。
そんな人間の存在を、どう思うか?どう感じるか?
この本で語られる物語は、思わず目を背けたくなるほどの不愉快さでもって
読む者を刺激してくる。
文学の役目とは得てしてそういった人間の暗部を明るみに晒すものなのであるが、
「近親相姦」という暗部は、本当に胃に来るような、猛烈な不快感を伴う。
タブーなんて横文字を使うとその罪の重さが希薄されてしまいそうで、
そうやって、読み手の私が主人公の犯した罪から逃れようとしていることに、
嫌悪感すら抱いてしまう。
(ただ、Wikipediaで「インセスト・タブー」と引くと
面白い見解を読むことができる)
それに加えて、今作では「幼児趣味」という
更に輪をかけた悪意を伴って襲いかかってくる。
幼女を近親相姦する・・・・
戦争や、猟奇殺人なんかよりもずっと、人間を人間で無くす獣の行為だ。
そんな『私の男』を読むことにしたのは、同名の映画を観たからだ。
原作のある映画なんて死ぬほど観てきたが、
(コミックが原作である場合を除いて)映画を観終わったあとで
その原作を読みたくなったのは『ハンニバル』以来。
(『レッドドラゴン』は映画よりも先に読んでいた)
それというのも、
映画では台詞もぼそぼそと良く聞き取れなかったし、
何よりも淳吾と花という親子が、“なぜそういうことになったのか” を、
映画を観ただけではまったく理解することができなかったからだ。
そして、映画は花が9歳のときに奥尻島で震災に遭うところから、
24歳で結婚(もちろん別の男とだ)するまでを時系列に描かれたのとは違って、
原作は花の結婚からはじまり、奥尻から紋別に連れて来られるところで終わる、
逆順に遡るように組み立てられていると知り、小説の方に興味が沸いたからだった。
どんな悪事や罪にも、酌量されるべき「赦し」が必要であると、
その赦しは過去にあるのだと言いたいのか、はたまた、
幸せに(?)結婚するという結末を先に提示することで、不快感を減らそうとしたのか。
残念ながら、なぜ逆順に書かれたのかについては、
読み終わっても尚、私にその意図は伝わらなかった。
いずれにせよ、読み終わったあとでも、この男を赦す気になど到底なれない。
もちろん、現代社会だからこそ歪んでしまう人間関係というものもある。
そういった「歪み」を文学によって顕在化するときに、
近親相姦というのは確かに悪くない題材だ。でも、少女趣味はそれとは話が別だ。
村上龍の小説でもそういった類の人物は多く登場するが、
こちらに登場する淳吾という男にはポップさがまったくない。
変態も行き過ぎたファッションと捉えられなくもないが、
ここに登場する男女は、ただの狂人にしか見えない。
レイプではなく、同意の下でそういった関係が結ばれていて、
そもそも中学生との間に「同意」が成立するのか?ということを置いておいても
いかに震災でショックを受けていたり、育った家庭の方が本当の家族でなかった
という真実が隠されていたにせよ、9歳の女の子がそれを受け入れるとは
私には思えない。
結論としては、私は淳吾にしても花にしても、
そのものの考え方には、一切の理解はもちろん、
同情さえもすることができなかった。何かがおかしい。
もう少しでいいので「こういう歪みならあり得る」と思わせて欲しかった。
その空洞を私の想像でもって埋めるべきなのでしょうが、
映像という、より現実に近い表現方法でもって、
同じ物語を先に反芻していたので、私にそれを埋める作業は難しかった。
まあ、こういった逡巡に揉まれるのもまた、
文学の素晴らしい精神作用でもあるので、
そういう意味でも良い作品だと言えるのですが。
(映画の感想につづく)
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2016.07.28
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