コンビニ人間

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良い本だった。
本当に良い本だった。
こんなに良い本を、久しぶりに読んだとさえ思った。
『教団X』のあとだったから、余計にそう感じたのかな)

「本」とは何なのか?「本」に何を求めるのか?は、
それこそ千差万別、十人十色だろうから、
私のこの評価を押しつける気はサラサラないが、
ここのところ「小説のための小説」ばかりを読んでいたことを、
この『コンビニ人間』が私に気づかせてくれたことだけは、
皆さんにもお伝えしておきたい。

この本にはいわゆる題材というやつが、前提にある。

何を伝えたいのか?が前提にあると思った。

そんなのあたりまえだと思われるかもしれないが、
「小説のための小説」には、その前提を見えにくく、煙に巻くことが、
あたかも「クールだ」と言わんばかりの姿勢が、時に感じられてしまう。

真っ直ぐに見えるものは私にも見えるので、
書き手が斜に構えたり、物事をナナメに見たりすることは、
小説を生み出す上でとても重要な作業だ。

行間を想像で埋めることも読書の嗜みであることは認めるが、
そうして書き手が抽出した「伝えたいこと」は、
是非真っ直ぐに読み手に伝えて欲しい。
その上で、文体やスタイルでクールさを表現して欲しい。と、私は思う。

禅問答のような話になったが、
『コンビニ人間』の真っ直ぐさは、昨今では希有な価値があると思う。

ルールや社会の中に生きる人間として、
価値観の多様さを信じながら、自分の価値の輝きを信じながらも、
単一の価値に身を寄せざるを得ないという矛盾。

35歳の女性が、結婚もせず、定職にも就かずに
コンビニのアルバイトを続けると、様々な隣人達から、
その生活を是正するように勧告される。

確かにそれは恥ずかしいことかもしれない。
その年齢にもなれば、幼稚園児くらいの子供がいて、たとえ裕福ではなくとも、
夫と共に家族を守っていることが、“一般的" なのかもしれない。

でも本当にそうなのか?

子育てする家族にだって、女性にだって、
一般的で、単一な価値基準だけでなく、
それぞれに様々な価値や考え方があるのではないのか。

そして、なぜ人は他人にお節介をやくのか。

なぜ、わざわざその違いをあげつらって干渉してくるのか。

「あなたのため」と言いながら、
なぜその人のためにならない非難を繰り返すのか。

他人を見下すことで、安心できることでもあるのか?

稼ぎ口がコンビニのアルバイトだと、何か不都合でもあるのか。

コンビニで働くことと、大企業で働くことに、
どれだけ内容の違いがあるのか。

結婚してると偉いのか。

定職に就いていると偉いのか。

時に人は、収入の安定や、年金制度などの社会保障、
人類の繁栄、存続を理由に、カタにはまった人生を他人に対して強要してくる。

寄って暮らす社会を安定させるため、
不安定さを生む異物を排除しようと、半自動的に採ってしまう是正行動。

でも、特に趣味などなくても、食べるものに味などなくても、
それで良いと思えたら。

むしろ、コンビニで働く事が唯一の生きがいだと感じられたら。

その生き方を認めることができたら。

自分の中の、一体何が、そういった生き方を認めることを拒むのか。

私は社会のルールを破ってまで、他人の平安に揺らぎを与えてまで、
自由に生きることが正しいと言いたいわけではない。
平均的に生きることの正しさを否定する気もない。
ただ、これを読んで、
自分の寄って立つ真理に、今一度疑問を感じることができた。

お金、家族、恋愛、就職、結婚。
現代社会に生きる人間達が、あたりまえだと信じてきた “決まり事” が、
本当はどういう意味を持つのか?一体なんのための仕組みなのか?を、
365日、24時間、絶え間なく回り続けるコンビニのパーツになることが、
与えられた使命、最高の幸せだと感じる一人の女性の視線を通して
あぶり出されます。

これこそ「本」でなければ伝えられない物語だと思う。
ほんの150ページの作品なので、あっという間に読み終わってしまいますが、
そのページ数以上に考えさせられる一冊でした。

映画化される「本」が評価される時代に、
本当に読書が好きな人に贈りたい、オススメ度:100の小説です。
  

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2017.06.29 | コメント(0) | トラックバック(0) |

リーディンググラス つまり老眼鏡を作ってみた。

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花粉症は心の病のような部分が少なくないと、ずっと思っていた。
だから、自分が認めさえしなければ、症状を抑えられると信じて疑わなかったが、
ひと度認めてしまえば、昨今の花粉症薬の優秀さを知ることになり、
一錠飲んでさえしまえば、そのラクさ加減を知り、
「自分はいったい何に抗っていたのだろう?」と、誰もが思い直すことだろう。

老眼鏡も同じだ。

やはり、使い勝手の良さに対する予感以上に、
「これを使いだしたら終わりだ」といった、強迫観念も強く、
何より、「私はジジイです」と世間に宣言しているようなモノなので、
花粉症を認める以上に、そのハードルは高い。

私が汚い格好をして街を歩いていれば、
不快な思いをする人や、何より、私に少ないながらも期待を抱く方々を
失望させることもあるかもしれない。とか、
思ってはみたものの、
私がジジイで困る人がいるのか?と、我に返ってみれば、
そんな人いるわけもなく、同じジジイっぽい症状でも、
鼻毛が覗いている方がよっぽど他人様に失礼だったりする事に気づく。

と、思い直すに至り、いよいよ老眼鏡を作ることにした。

実は、すでに数年前から軽めの遠近両用レンズを使いはじめていた。
それは、手許を見るための老眼向きの近距離レンズが、
レンズ全体の下1/3に設えられたものなのだが、
気づくと、その部分が目の正面に来るように、
眼鏡を持ち上げて書類を見るようになってしまい、
その仕草の方がよっぽどジジくさいと思うに至ったというのが真相だ。

とか、あれこれ言い訳が長くなったが、
使わなくなった手持ちのメガネフレームに、
老眼用のレンズを入れただけなので、金額的にも騒ぐようなことでもない。

なのであるが、実際に使いはじめてみれば、
特に本を読むときの快適さに関しては、もう別格であることは言うまでもない。
おかげで本を読む時間がずいぶんと増えた。
続けて長時間読めるようになったので、一冊読み終わるのが早い速い。
というか、本を読むのが楽しくて仕方がない。

本題からおおよそ逸れるが、
同じ本を、時間が経ってから読み返すと、
最初に読んだときとは違う感想をもつ経験はあったが、
一息に読み切ると、更に違う “読め方” をすることに気づいた。

今までは、空き時間を繋ぎながら、
もしくは3冊くらい同時に読んだりしていたので、
ときには、次に再開するまでに1ヵ月経っていた、なんてザラだった。
だから、そこまでの物語の経過を、思い出しながら読んだりしていたわけだが、
今は、この老眼鏡のおかげもあって、
500ページくらいなら2日くらいで読み終わるようになった。
中にはもちろんすでに読み終わった本を読み返すことも含まれるわけだが、
前回は数ヶ月かかって読み終えた本を、数日で読み終えたりもするわけで、
そうすると、憶えていた内容と少なからず違って感じ取れたり、
前回は気づかなかった示唆に気づけたりする。
もちろん、重ねた年齢のぶんだけ感想が変わることもあるのだが、
それとも違う発見があってちょっとうれしい。

目は良いが、本を読む時間がなかった若い頃と、
目は悪いが、本読む時間ならたっぷりある今とを較べれば、
老眼鏡の効能は考えなくてもすぐにわかる。

小さなプライドなんぞ、すぐにでも放棄して、
老眼鏡を手に入れるべきでありました。
いやはや、まさに人生の視界良好であります。
  

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2017.06.28 | コメント(0) | トラックバック(0) |

中村文則 『教団X』

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宗教は阿片だ。
と、『ヘーゲル法哲学批判序説』の中で説いたのはマルクスだが、
要は、宗教という存在は、薬にも毒にもなると、そういうことだ。

もちろんこの『教団X』も、その名の示すとおりに、
それがあからさまな毒として作用してしまった、
オウム真理教事件を土台に描かれていて、
国家の転覆を謀るテロを起こすところまで同じだ。

なので、カルト教団がなぜそういった行動を起こすのか?に関して、
さしたる説明はないし、読んでいる方も「そういうものだ」と、
言わずもがなの前提として読み始められてしまう。

だから、なぜカルト教団が国家の転覆を謀るのか?に関して、
もっというと、「彼らは一体何が不満なのか?」に関して、
私自身、よく考えたことはないことにも気づかされる。

今作は、そんな素直で単純な疑問へ、独自の見解と共に、
狂気に満ちた解答を提示している。

それは、「神の存在への挑戦」であった。

様々な逡巡の果てに「神の存在」へ行き着く者は多いが、
さらにその逡巡を「神とは何か?」にまで推し進めれば、
そこに答などないことがまた、更に大きな逡巡を生み出していく。

そこへの答に、科学的な見地を見い出したことで逡巡を終えられた「松尾」と、
そこから更に、その存在を “確認” しようとまでした「沢渡」という、
二人のカリスマが率いる、二つの「教団」の考え方に沿って、
神の存在をあぶり出そうと試みたのがこの作品だ(と思う)。

突如行方不明になった恋人「立花涼子」を探すために、
単身教団に乗り込む、無職の男「楢崎」から物語ははじまる。
教団Xの実質的なナンバー2である、
アフリカの紛争地域で生死の狭間を彷徨った男「高原」が、
実は「立花涼子」の異母兄妹であることを楢崎は知る。
しかも、二人は兄妹でりながら “恋人同士” でもあった。
そうしたどこにでもある恋愛感情のもつれから話はスタートするが、
次々に語り手はバトンタッチして行き、
ふたつの教団の内外にいる人間たちを追いながら、
最後にはその核心部に隠れる教祖の「思想」にまで到達していく。

一見、人間ドラマっぽくもあるのですが、
言ったようにこの物語の本質は、神の存在への挑戦にあるので、
そんな人間ドラマに付き合う必要は一切ない。

この小説においてのドラマは、言ったように、
二人のカリスマの、神への考察(これがまた長い)を読み込ませるための
プロットでしかないので、この際、無視して構わない。

神の存在を確認するために「教団」という団体を、
その存在が現出するであろう状況を生み出すために「信者達」を利用した、
教祖、沢渡の秘密結社、公安から暗号で「X」と呼ばれる宗教団体の物語。

そんな今作を読み終わって思うのは、
科学を読み解くほどの明晰さを持つ博識なのに、
結局「神は罪を罰するために現れる」という、
それはつまり悪魔崇拝でしかないという、
あまりにも稚拙な発想に辿り着いてしまっている点が、かなり、
か・な・り、残念だ。

発想が稚拙であることを横に置いても、
そうまでして渇望した「神の罰」の執行を待たずして執られた、
沢渡の最後の行動は、甚だ疑問だとしか言いようがなく、
まったく理に叶っていない。

ということに、600ページ近い本作中の2/3を読み終えた頃には気づいてしまい、
そのあと、大々的なテロが実行され、物語はいよいよ佳境へと向かおうとするのに、
すでにそこへの関心は薄まってしまっていた。
まだ200ページも残っているのに、これはかなり残念な仕打ちであった。


最近、このテの小説を読むと気になるのが、映画化の可能性だが、
神学的な要素を一旦外して、秘密教団のテロ行為を軸に
物語を再構築(再整理)して映画化したら、
そこそこ面白くなりそうな気もする。
その反面、『21世紀少年』のような失敗を辿る気もしないでもない。

『21世紀少年』で描かれたような、
マインドコントロールされた人々の描写には納得がいかないからだ。

たとえそれが狂信であっても、盲信であっても、邪教であったとしても、
宗教に囚われた人間が、薬物依存で目が曇った廃人のようになるはずがない。

その目的、理由がなんであれ、目的を得た人間の見せる気配や表情とは、
「自分探し」とか言ってる “平凡な幸福者” とは違って、
それこそ生き活きと、颯爽としているはずだからだ。

でも、ああでもしないと、単に「仕事だから」と、
今の状況を守ろうとする普通の人間の方が、
打倒すべき「悪」に見えてしまうであろうこともワカランでもない。

つまりそれは、阿片でも何でも、合法でも脱法でも、
人々に宗教が必要になってしまう、逆説的な理由の解明でもあるわけだ。

信じる者は救われる。

と、今作が描きたかったのは、そういうことなのかな?と、
思い至ってしまった次第。
これこそ作者の思うつぼだったのかな?

さておき、私の期待ほどには良い本ではありませんでした。
オススメ度:30。ブックオフで見かけたら読んでみてください・・・
  

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2017.06.22 | コメント(0) | トラックバック(0) |

村上春樹【騎士団長殺し】第1部、第2部。

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やはり、発売と同時に買ってしまった。
第1部、第2部、各定価¥1,800(税別)は安くないし、
何より単行本は持ち運ぶには重い。
なので、文庫化を待つのが得策なのだが、
村上春樹の新作だというだけで読まずにいられなくなってしまった。
お恥ずかしい限りだが、要は話題作に弱いミーハーな理由でしかない。

なので、読み終わったあとで、
「理由はさておき、良い本を読んだ」と思えることを期待して、
そして、村上春樹ならば、そうなる確率が高いことを皮算用したわけなのですが、
結論から申し上げて、残念ながら心から「おもしろかた」と
言える作品ではありませんでした。

私は、TVドラマでも、映画でも、物語に結論が欲しい人間だ。
小説なら尚更に。
示唆した物事に、それなりの論理的な解答で結んで欲しいと思う。
その解答が、ぴったりエンディングに結実されれば言うことナシだ。

どうやら、村上春樹という作家は、そもそもそういったことに
頓着しない(ことの多い)人のようだ。

科学的な理屈ではなくても、なんとか納得することのできる、
ギリギリ解答らしきものを受け取れることが、『1Q84』をはじめ、
ここ数作では実際にあったので、今回もそれに期待したわけだが、
今作に関しては、かなりの肩透かしを喰った。

幼くして亡くした大切な妹。
突然、理由もなく別れを告げてきた妻。
謎の多い金持ちから依頼される高額報酬の仕事。
世界的に有名な日本画家のアトリエに隠されていた大作。
アトリエの裏に見つかった古い祠と、井戸のような「穴」。
夜な夜な決まった時間にそこから微かに聞こえてくる鈴の音・・・

オカルトチックで不気味な出来事と、策謀と罠の匂い、
そこから逃れられない人間の弱さと過ち・・・
あまりに突然に、あまりに理不尽に妻に捨てられた男は、自分を見失いながら、
得体の知れない暗闇に引きずり込まれていってしまうのか・・・・・

・・・・・と思いきや、突如目の前に現れたのは、身長60cmほどの、
おかしな言葉遣いをする「イデア」を自称する奇妙な存在。
謎めいていた登場人物達には、実はそれぞれにとても分かりやすい重荷を、
その両肩に抱えている市井の人々だった。

ナチス以前のヨーロッパに、深い絵画への理解、
芸術家の思考論理への理解、シルバーのジャガー、プジョー205など、
読み手の創造力を喚起する情報の配置の仕方。
そのセンスと、ナンセンスの組合わせ方、それを使った気の惹き方など、
振り撒かれた謎たちが、答に向かって一気呵成に収束していくように設計された
物語の運び方や、文捌きは、さすが村上春樹と言わざるを得ないものでした。

そもそも、この題名は、本作を意味づける重要なキーワードではない。と、思う。
すでにそこからして「解答」を避ける、良い意味で読み手の期待を裏切るための
ギミックが進行していたようにも感じる。

「井戸のような穴の真実」、
「イデアとは如何なる存在なのか?」はもちろんのこと、
「森の中にあるという秘密の抜け道」、
「幼い妹の死との関係」、
「別れた妻の妊娠」、
「東北を巡った傷心旅行中に出会ったスバルフォレスターの男」、
「宗教団体に資産を吸い上げられている資産家の父親」、など、
そのギミックとおぼしき伏線は、結局「閉じない環」とでも言いたげに、
もしくは意味ありげに、謎は謎としてそこに放置されたまま終演を迎えてしまった。

上下巻ではないことを考えると、ひょっとしてこれは、
第3部以降が存在する、計画的な悪戯なのかもしれないが、
そういう主観による補完も含め、今はただただ、
ザワザワとさせられた気持ちもそのまま放置されてしまっている。

そんな、本にザワザワを期待するムキには堪らない作品でありましょうが、
お子ちゃまの私には到底無理だ・・・

ひょっとすると、スタジオジブリが今作をアニメ化したら、
(トトロが何者なのか?論理的に知りたいと思う人はいないだろう)
なんとなく納得してしまいそうな、そういう種類の物語でありました。
  

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2017.04.21 | コメント(0) | トラックバック(0) |

マチネの終わりに

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本を読むのは好きだけど、
読みたい本が見つからないという人は多いのではなかろうか?

それを理由に本屋を徘徊するのは嫌いではないが、
そんな状態で読みたい本に出会えるはずもない。
かといって書評に目を通すほど好き者ではないし、
「一番売れてます」みたいな本に手を出すようなお人好しでもない。

そんなヒネクレ者に『アメトーーク 読書芸人』と言う番組は、
ことのほか役に立つ。

この『マチネの終わりに』も、番組中で紹介されていた本だ。

番組中、様々に紹介されていた本の中から、これを選んだのはもちろん、
最近すっかり恋愛方面にご無沙汰になっている私の諸事情のせいだが、
音楽でも文学でも、そういう心の空洞に、自虐的に当て込むのが、
芸術のもつ効果効能が、一番高く顕れることもまた確かなので、
この際、臆面もなく傷口に塩を擦り込むことにする。

そんなわけで、こちらは恋愛小説だ。

恋愛に限らず、人間関係の困ったところは、
これだけコミュニケーションツールが発達した現代に於いても尚、
相手の本心が読み切れないという所にある。
だから、ちょっとした誤解やボタンの掛け違いで、
いとも簡単に、人と人とはすれ違って行ってしまう。

本当の意味で文学が取り扱う恋愛とは、犬も食わないような色恋話ではなく、
すれ違いを含めた、恋愛だからこそ巻き起こる、
様々な人間の苦悩や葛藤、そのものなわけだ。

誤解という行為はまた、当該人物の知能指数が高ければ、
情報不足かも、認識不足かも、なんていう不確実な可能性に頼らなくなるので、
そもそも「勘違い」とかいう、ミスがなくなる。
そして、「勘ぐり」や「決めつけ」なんていう低レベルな人間のすることは、
誇りに賭けて絶対に避ける傾向も顕著だ。

そんな知能指数の高い人間が、もし何かの要因によってすれ違うような
ことがあれば、そのすれ違い方は、凡人の勘違い以上に悲惨な結果となり、
その傷の有り様は、より文学向きな題材となるわけだ。

なので、若くして名声を手にした天才ギタリストと、
世界的に活躍する外国人映画監督を父に持つ、
紛争地域を取材する女性ジャーナリスト、という男女の物語は、
私のような凡人には、これ以上ないくらいに嫌みな物語でもあるのだが、
だからこそ描ける人間の悲哀と愚かさというものもある。

「これまでたった三度しか会ったことがなく、
 しかも、人生で最も深く愛した人。」

あなたはそんな人に出会ったことがあるだろうか???
私にはない。と思う。(ひょっとしたらいたのかも?
でも、気づけていない時点で出会ってないのと同じか)

そんな知識と教養に富んだ二人だからこそ、出会った瞬間から直感的に、
相手を自身にとって最愛の相手だと理解し、運命の相手だと認めることができたし、
相手に対する尊敬も、強い思いや確信もあったからこそ、
相手の「心変わり」にもすぐさま対応できてしまったわけだ。

しかして、それが悲惨だと言ったように、
相手の心変わりだと察したことが実は、
頭の回転が速すぎるが故の「早合点」であることに、考えが至らないのは、
まさに英知を授かった人間に与えられた「罰」のようなものだ。

しかもそれが、そんな二人の才能に嫉妬する、知能指数の低い、
自己中心的な凡人の横恋慕から発生した、
人為的な事故であるという部分がこの物語のミソだ。

人が人の運命を左右するようなことを、
悪意を持って行うなんてことが、「紛争地域以外で起こるはずがない」という、
知能指数の高さ故のミスジャッジを誘発し、
想像だにできないような、心を打つ残酷性を、そこに発生させている。

そんなわけで、才能や知識に富んだ人間たちが、相手を思いやりすぎる割に、
簡単に自分を卑下して考えてしまうその特性故に、
結果、運命の相手と、完全にすれ違ってしまうという残酷性は、
とても文学的な試みであるわけだ。

ラストシーンまで一気に読み切ってしまいたくなるような、
素晴らしいラブ・ストーリーであり、人間の無知と英知がせめぎ合って導き出す、
矛盾した解答のもつ儚さや、惨さを描いた文学性の高い一冊だと思います。

さておき、来週はバレンタインデーですね〜〜〜
私には何の関係もございませんが、チョコレートと一緒に、
こんなほろ苦い一冊をプレゼントしてみるのはいかがでしょう?
諸般の事情で心の澄んでいない方、澄んだ恋愛にご無沙汰の方に、是非。
  

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2017.02.10 | コメント(0) | トラックバック(0) |

村上海賊の娘

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時は天正四年(1576年)、織田信長と大坂(大阪)本願寺の戦いは七年目を迎えていた。
大阪本願寺より援軍を要請されていた毛利家は、
陸路での兵糧入れを諦め、海路からの兵糧入れを考えていた。
それに際して白羽の矢が立ったのが、瀬戸内を本拠とする海賊「村上海軍」であった。

しかして、毛利に忠義はあっても、大坂本願寺を助ける理由などない村上家は、
その申し出をにべもなく断るが、なんと村上水軍の当主、村上武吉は、
長女の景(きょう)を毛利家直属の警固衆(水軍)の長、児玉就英への
輿入れと引き替えに、大坂本願寺への水路での兵糧入れを引き受けると打診する。

しかして、その景は、女だてらに海賊仕事に明け暮れる
剛剣を振るう女剣士で、輿入れ先などあろうはずもない醜女であった。

そんな父親の申し入れなど聞く耳を持たない景は、
話半分で城を飛び出し、またも海賊仕事に出かけてしまうが、
その仕事先が、大坂本願寺へ助太刀に向かうという一向宗の門徒である、
安芸高崎の百姓衆を運ぶことであった。

最初は百姓どもを大坂本願寺に届けることに難色を示す景だったが、
「泉州の海賊たちは景のような女性、バテレンのごとき外見の女性に目がない」
という門徒の中にいた長老の源爺の嘘話を真に受けてしまい、
男漁りのためその仕事を引き受けてしまう。

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そうして辿り着いた大阪で、織田信長寄りである、泉州の水軍『眞鍋家』当主、
眞鍋七五三兵衛(しめのひょうえ)と運命の出会いを果たすこととなる。
この七五三兵衛という男がまた怪物と畏れられる剛強無双の巨漢であった。
すると、あろうことか、源爺の嘘が真になってしまい、驚いたことに
七五三兵衛をはじめ、泉州の男どもに寄ってたかって景は好かれてしまう。

しかして、男どもに代わる代わるに惚れられてしまう幸せな時間は長くは続かず、
そのあとついに織田方と本願寺との戦が勃発してしまう。
それまでは遊び半分の海賊仕事でも、自分に敵う相手などいなかった景であったが、
相手が老人であろうと何であろうと、完膚なきまでに叩き潰す戦の真実を
目の当たりにして、まだ敵方にまで情を寄せてしまう自分の覚悟のなさを
心底思い知ってしまう。

そんな意気地のない人間を「面しゃーない奴」と呼んで軽蔑する
七五三兵衛にまで蔑まれてしまい、まさに井の中の蛙であった景は、
ほとほと自分の小ささを知って意気消沈し、瀬戸内へと引き返してしまう。

輿入れの話が片方で進んでいながら、
何も言わずに景を大阪への海賊仕事に送り出した父、村上武吉は、
景が本当の戦を目の当たりにすれば、海賊仕事を諦め、
輿入れの話にも素直に応じるであろうことを予想していたのであった。

しかして、
「無駄死にと分かっていても、敵に立ち向かって死ななければ極楽浄土には行けぬ」
という、理不尽極まりない戦を強いられている、自身が送り届けた
一向宗門徒たちの思いを知るに、一度は折れかけた心を奮い立たせ、
真の剣士として、村上海賊の娘として、景は、怪物、眞鍋七五三兵衛率いる
泉州の海賊との海戦の先陣を切っていく。
そして、そんな無謀とも思える景の行動は、
すでに禁じ手とされるほど、伝説となり畏れられた、最強にして最後の海賊戦法、
『鬼手』を発動させることになる・・・・・



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北海道ツーリングの往復の船上と、
3泊したテントの中で2巻までを読み終え、
つづく3〜4巻も一週間とかからずに読み終えてしまった。

私はこのテの歴史小説の類を読んだことがなかったので、
本当の偶然でしかないのであるが、
旅の友、中でも船旅の友に、この本はもってこいでありました。

それは、ほとんど仕事のあとの自宅でテレビを観るような、
肩の力が抜けたところにスス〜っと入り込んで来る、
気軽で軽妙な映像作品のような、おとぎ話でありました。

最初はこの恥ずかしげもない演出過多の出来過ぎた展開に、
ちょっとした胃もたれを感じましたが、そういうものだと分かってからは、
逆にその分かりやすい、やり過ぎな感じにすっかり病みつきになってしまい、
ツーリング中を含め「すぐに続きが読みたい」と思わされるほど、
スピード感もテンポも良く、まさに物語の中に引きずり込まれてしまった。

きっとこれを読む誰しもが、「映画化するなら」と、登場人物たちを、
自分の好きな俳優で配役しようとしていまうだろう。
それほどに劇中の画が頭に浮かぶようなとても分かりやすいお話でありました。
聞けば、和田 竜という作家は、元々テレビ関係の方だったようで、
こういったイメージしやすい文体も、それもあってのことなのだろう。

そんなことを書くと、小説のための物語でしかないように
思えてしまうかもしれないが、そんな娯楽的要素とは裏腹に、
史実との整合性にとても気を配られているようで、
実在の登場人物たちだからこその、生き活きとした躍動感が描写されている。
そういったこともあり、日本史にはとんと疎い私でも、
気軽に「歴史冒険活劇」を旅することができたのだと思います。
  

テーマ:歴史小説 - ジャンル:小説・文学

2016.11.10 | コメント(0) | トラックバック(0) |

私の男(小説)

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とある人間から、完全に抜け落ちてしまった理性や社会性。
ひょっとしたら知性すら失ってしまったのかもしれない。
そんな人間の存在を、どう思うか?どう感じるか?
この本で語られる物語は、思わず目を背けたくなるほどの不愉快さでもって
読む者を刺激してくる。

文学の役目とは得てしてそういった人間の暗部を明るみに晒すものなのであるが、
「近親相姦」という暗部は、本当に胃に来るような、猛烈な不快感を伴う。

タブーなんて横文字を使うとその罪の重さが希薄されてしまいそうで、
そうやって、読み手の私が主人公の犯した罪から逃れようとしていることに、
嫌悪感すら抱いてしまう。

(ただ、Wikipediaで「インセスト・タブー」と引くと
 面白い見解を読むことができる)

それに加えて、今作では「幼児趣味」という
更に輪をかけた悪意を伴って襲いかかってくる。
幼女を近親相姦する・・・・
戦争や、猟奇殺人なんかよりもずっと、人間を人間で無くす獣の行為だ。


そんな『私の男』を読むことにしたのは、同名の映画を観たからだ。

原作のある映画なんて死ぬほど観てきたが、
(コミックが原作である場合を除いて)映画を観終わったあとで
その原作を読みたくなったのは『ハンニバル』以来。
(『レッドドラゴン』は映画よりも先に読んでいた)

それというのも、
映画では台詞もぼそぼそと良く聞き取れなかったし、
何よりも淳吾と花という親子が、“なぜそういうことになったのか” を、
映画を観ただけではまったく理解することができなかったからだ。

そして、映画は花が9歳のときに奥尻島で震災に遭うところから、
24歳で結婚(もちろん別の男とだ)するまでを時系列に描かれたのとは違って、
原作は花の結婚からはじまり、奥尻から紋別に連れて来られるところで終わる、
逆順に遡るように組み立てられていると知り、小説の方に興味が沸いたからだった。

どんな悪事や罪にも、酌量されるべき「赦し」が必要であると、
その赦しは過去にあるのだと言いたいのか、はたまた、
幸せに(?)結婚するという結末を先に提示することで、不快感を減らそうとしたのか。
残念ながら、なぜ逆順に書かれたのかについては、
読み終わっても尚、私にその意図は伝わらなかった。
いずれにせよ、読み終わったあとでも、この男を赦す気になど到底なれない。

もちろん、現代社会だからこそ歪んでしまう人間関係というものもある。
そういった「歪み」を文学によって顕在化するときに、
近親相姦というのは確かに悪くない題材だ。でも、少女趣味はそれとは話が別だ。

村上龍の小説でもそういった類の人物は多く登場するが、
こちらに登場する淳吾という男にはポップさがまったくない。
変態も行き過ぎたファッションと捉えられなくもないが、
ここに登場する男女は、ただの狂人にしか見えない。

レイプではなく、同意の下でそういった関係が結ばれていて、
そもそも中学生との間に「同意」が成立するのか?ということを置いておいても
いかに震災でショックを受けていたり、育った家庭の方が本当の家族でなかった
という真実が隠されていたにせよ、9歳の女の子がそれを受け入れるとは
私には思えない。

結論としては、私は淳吾にしても花にしても、
そのものの考え方には、一切の理解はもちろん、
同情さえもすることができなかった。何かがおかしい。
もう少しでいいので「こういう歪みならあり得る」と思わせて欲しかった。
その空洞を私の想像でもって埋めるべきなのでしょうが、
映像という、より現実に近い表現方法でもって、
同じ物語を先に反芻していたので、私にそれを埋める作業は難しかった。

まあ、こういった逡巡に揉まれるのもまた、
文学の素晴らしい精神作用でもあるので、
そういう意味でも良い作品だと言えるのですが。

(映画の感想につづく)

テーマ:ブックレビュー - ジャンル:小説・文学

2016.07.28 | コメント(0) | トラックバック(0) |

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埼玉のへそ曲がり

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